青春シンコペーションsfz


第2章 機械仕掛けのピアニスト(1)


井倉はピアノの前に座ったまま途方に暮れていた。基礎練習のハノンとツェルニー50番の課題を終え、リストの『ため息』を何度か弾いた。が、その先の見当がまるでつかなかった。
(この曲は好きだし、どうしても弾けるようになりたい。それに、音楽祭でも成功させたい)
しかし、直さなければいけない箇所も多かった。
「あと1ヶ月……か」
楽譜を見つめて思わず呟く。コピーした楽譜には、黒木やハンスから指摘された注意がびっしりと書き込まれている。ハンスは赤、黒木は緑のペンという風に色分けされ、フリードリッヒからのアドバイスも、これに加わるかもしれない。
(それだけだって精一杯なのに…………)

――井倉君はアレンジ。この1週間でどこまで出来るかチャレンジしてください

(そんなのとても出来ない。この曲をアレンジしろだなんて……)
のし掛かる重圧に耐えきれず、井倉は頭を伏せた。
閉ざされた地下室のオーディオルームにいるのは井倉一人だった。微かな音も、壁や床に吸われ、或いは深く沈んで自らの胸に重く響いた。

「喉が渇いた……」
井倉はそこを出ると、隣の部屋のドアを開けた。小さなキッチンには流しと冷蔵庫、食器棚、そしてワインセラーが置かれている。それから、彩香と二人暗闇の中に閉じ込められてしまったあの倉庫の扉。

――怖くなかったの?

囁くような彼女の声が、今も耳の奥をくすぐる。

――そう。あなたは届かない所へ行ってしまった。さよならも言わないで……

「彩香ちゃん……」
胸が熱くなるのを感じた。
「彼女は確かにそう言ったのだ。あの時……」
身体が火照っている。アルコールを飲んだ訳でもないのに……。
「いけない。少し頭を冷やそう」
井倉は顔を洗うと冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出してコップに注ぎ、一気に飲んだ。すると、今度はハンスの言葉が頭を過ぎった。

――僕は子どもの頃、地下に幽閉されていたんです

「あれはどういう意味だったんだろう?」
井倉はもう一杯麦茶を注ぐと今度は噛み締めるようにゆっくりと飲んだ。

――倉庫の扉にはドアストッパーを取り付けました。それに懐中電気も

井倉はそっと倉庫のレバーに触れてみた。

――わたしも好きよ、リストの「ため息」

(そうだ。彼女も好きだと言ったんだ。絶対に上手く弾かなきゃ……)
井倉はコップの麦茶を飲み干すと通路に出た。その時、誰かがリビングのドアを開け、階段を降りて来るのが見えた。ハンスだ。
「井倉君、練習は順調ですか?」
「あ、はい。もう基礎練習は終わりました。ちょっと喉が渇いたので麦茶をいただいたところです」
「じゃあ、ちょっと休憩しませんか? 30分だけ僕にピアノを貸して欲しいんです」
「はい。どうぞ弾いてください」
井倉はそう答えたが、内心酷く驚いていた。これまで一度もハンスがそんな事を口にした事などなかったからだ。
「ありがとう」
ハンスはそれだけ言うとオーディオルームの中に入って行った。井倉は自分も中に入ろうか迷ったが、すぐに彼が弾き始めたようなのでそのまま階段を上がって行った。


リビングではピアノの椅子に座った彩香がぼんやりと楽譜を見つめていた。声を掛けて良いものかどうか迷っていると彼女が振り返って言った。
「井倉、アレンジは進んでるの?」
「いえ、全然……。僕にはとても手に負えるような曲じゃないんです。それなのにハンス先生が……」
そう言い掛けて彼は黙った。愚痴を言っても仕方が無いし、彼女はそんなこと聞きたくもないだろう。叱責されるに違いないと思って首を竦めた。が、彼女は軽く息を吐いて言った。
「ねえ、訊きたいの。速弾きってどうすればいいのかしら?」
「え?」
井倉は一瞬、驚いたように彼女を見つめた。

「ハンス先生は課題の曲さえ決めてくださらないのよ。何でも好きな曲を弾けば良いのだとおっしゃって……。でも、わたしには見当がつかないの」
「えっと、それは普通に考えて、楽譜に指示されてるテンポより速く弾くって事だと思うんですけど……」
恐る恐る口にする。
「そんな事はわかってるわよ。でも、楽譜にそう指示されてるのだから、それを守らなければいけないでしょう? だって、それが曲を作った人の理想の形だもの。勝手に速度を変えて弾くなんてアンフェアなんじゃないかしら」
「でも、それがハンス先生からの指示なのだし……。それに、速弾きするのって結構楽しい課題だと思いますけど……。少なくとも僕は子どもの頃やってみた時は楽しかった気がするな。当然速く弾いたらミスタッチが増えちゃうけど……。どこまで速く正確に弾けるかなとか……。チャレンジしてみるのも結構刺激的だと思いますよ」
井倉はうれしそうだった。そんな彼を見て、彩香は軽く肩を竦めた。

「わたしは子どもの頃から常に楽譜の通りに再現する事を目指していたの。書かれている通りにただ1音の間違いもなく弾く事。それがすべてだった」
「はあ」
彩香の演奏の完璧さはそこにあるのだと、井倉は思った。しかし、それでは速弾きの課題はこなせない。
「取り合えず曲を決めて、テンポを変えてみたらいいですよ。たとえば、『トルコ行進曲』なんてのはつい速く弾きたくなる曲でしょう?」
「そうかしら?」
「そうですよ。ああ、幾つの時だっけな? 弾けるようになったの。僕は、早くこの曲が弾きたくて先生に黙って一人で練習したんです。最初はゆっくりと……。少し慣れて来たらだんだん速度を上げて……。でも、どんなに楽譜通りに弾こうと思っても、なかなか上手く行かなくて……苦労しましたよ。『トルコ行進曲』。モーツァルトの曲って楽しいけど、一筋縄では行かない難しさがあると思うんです。それでも速弾きするのは楽しかった」

「でも、完成形では必ず楽譜に書かれているテンポを守るでしょう? だって、それが完成形なのだから……」
困惑したように井倉を見る。
「そうか。じゃあ、答えは簡単ですよ。速度記号を変えてしまえばいいんです」
「速度記号を変える?」
「そう。たとえば、『トルコ行進曲』はアレグレットの曲だけど、プレストで弾いちゃうとか……」
「でも、それは作曲者の意図とは違うわ」
「それがハンス先生の意図だとしたら?」
井倉が畳み掛ける。
「でも……」
彩香は指と鍵盤の間を見つめた。

「だって、これはハンス先生の課題なんです。ほら、元の曲を後世の作曲家やピアニストがアレンジするって事あるじゃないですか。パガニーニ風とか、ホロヴィッツ風とか……。だったら、彩香さんが弾く曲はすべてハンス風って事にしてプレストで弾くって事にしてみたらどうですか?」
「すべてをプレストで……」
彩香は少し考えるように猫の形のメトロノームを見た。
「そうね。確かにハンス先生ならプレスト的速さが似合いそうな気がするわ」
微笑する彩香の横顔を見て、井倉の胸の奥で鼓動が激しくなった。
陽に透ける彼女の白い肌。伏せた睫。そして、膝の上に置かれた左手。その指に似合う指輪を自分に見つける事が出来るだろうかと考えて彼は慌てて視線を逸らした。

「それなら、私でも出来そうな気がするわ」
その時、ちりりと小さな鈴が鳴った。2匹の猫が互いのしっぽにじゃれていた。窓の向こうには丈の高いヒマワリの花が並んで咲いているのが見える。そして、隔てられていても蝉の声が聞こえる。美樹と黒木は出かけていた。いつもなら人の出入りが激しいこの家も、今日は静かだ。
(彩香さん……)
思わずそう口にしようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「あら、お客様かしら?」
彩香が椅子から立とうとするのを止めて井倉が言った。
「彩香さんは練習しててください。僕が出ますから……」

客はフリードリッヒだった。
「やあ。ハンスはいるかい?」
井倉が扉を開けると、真夏の日射しに映えるような笑顔で彼が言う。
「先生なら今、地下のオーディオルームにいらっしゃいますけど……」
井倉が答えるとフリードリッヒは満面の笑顔で言った。
「そうか。ようやく彼もその気になってくれたようだね。今日は実に素晴らしい日だ。お祝いのケーキを買って来たんだ。井倉君、お茶の用意をしてくれないか?」
フリードリッヒはつかつかとリビングに入って行くと彩香に言った。

「こんにちは、彩香さん、相変わらず君は美しい! ピアノの音も快調のようだね」
「こんにちは、ヘル バウメン」
彩香が立ち上がって挨拶する。
「ああ、いいんだ。どうか練習を続けてくれたまえ。私はハンスに用事があって来たのだから……」
彼女が何か言おうとするのを遮ってフリードリッヒは勝手に地下室へ降りて行った。
彩香は一瞬だけその扉を見たが、すぐにピアノに向き直ると、プレストの速さで『トルコ行進曲』を弾き始めた。

(すごいや、彩香さん。こんなに速く弾いてるのにまるでミスがない)
井倉は思わず立ち止まって聞き惚れた。が、フリードリッヒから渡された箱に気が付き、急いでキッチンへ向かった。
(それにしても、ハンス先生の邪魔をしちゃって大丈夫かな?)
茶器を揃えながら、井倉は時計を見た。まだ30分は経っていない。珍しく真剣な顔でピアノを貸して欲しいと言っていたハンスの心情を思うと急速に不安が胸に広がった。今フリードリッヒと会わせるのはタイミングが悪いのではと思ったからだ。が、今更どうにか出来る筈もない。井倉は諦めて電気ケトルで湯を沸かした。


それから、井倉がすっかり支度を調えた頃、地下からハンス達が上がって来た。
「井倉君、僕は最初に言った筈です。30分ピアノを貸して欲しいと……。なのに何故、こんなノイズを連れて来たですか? 僕にとってはとても大切な時間だったのに……。僕はすごく怒ってるですよ」
ハンスの怒りはもっともだった。彼にとって30分という時間は貴重なものなのだ。井倉はその事を十分承知していた。
「申し訳ありませんでした。僕の配慮が足りなくて……。ヘル バウメンにはここでお待ちいただくように言うべきでした」
井倉は蒼白になって詫びた。彩香はピアノを弾き続けている。倍速になってもきっちりとリズムを刻み、その音は少々ヒステリックに響いた。

「ハンス、別に彼を責める事はないだろう。私が一刻も早く君に会いたくて勝手に地下へ降りたのだから……」
フリードリッヒが弁明する。
「そう。僕は知ってますよ。井倉君は礼儀正しくていい子なんだって事を……。そして、彼は気が弱いです。僕に逆らったりしないですよ。でも、時にははっきりと言わなければいけないです。駄目な時は駄目だって……。いつも誰かの言いなりになっていると人生取り返しのつかない失敗するかもしれません。僕はそれを心配しているんです」
「先生……」
井倉は胸が熱くなった。
(先生はただ怒ってた訳じゃないんだ。僕の事を思って叱ってくださったんだ。それなのに、僕は……)

「本当にすみませんでした」
井倉が深々と頭を下げる。
「たった30分ですよ」
ハンスが繰り返す。
「30分だけ、僕はピアノと交尾しようと思ったのに……」
(こ、交尾って……先生、その日本語間違ってますよ)
井倉は心の中で慌てたが、口にするのは躊躇った。
(多分、弾く事を触れあうみたいな言い方にしたかったんだろうけど……)

ハンスの日本語はまだ時々は文法が違っていたり、言葉の意味を取り違えていたりする事があった。ハンスはもともと日本語を流暢に話すし、間違っているのを承知でわざと面白がって使っている事もある。井倉は明らかな間違いだけを指摘するように気を付けていた。が、ここで交尾という単語を使うのは明らかに違っているとは思うのだが、師に恥をかかせる訳にはいかないと押し黙っていた。
「先生、それをおっしゃるのでしたら、交尾ではなく、交流とか触れあいという単語の方が相応しいのではないでしょうか?」
曲を弾き終わった彩香が立ち上がって言った。彼女の口から交尾という単語が発せられただけで、井倉は何故か鼓動が高鳴った。

「いいんですよ。交尾するのは別に虫や動物ばかりじゃないですよ。人間だって、物だって同じです。僕はスタインウェイのあのピアノが好きだから愛でていたのです。井倉君もそういう事ないですか? ピアノと交尾したくなる事……」
「えっと、その、僕もピアノは好きなんですけど……あまりそんな風に考えた事なくて……」
井倉は困惑した。
「わたしには理解出来ませんわ。ピアノは確かに美しい音色を出す物ですけど、それは楽器であるからで、人間のように感情がある訳ではありません。楽器に恋するとか、あまりにも文学的な比喩には付いていけません」
「彩香さん……」
井倉は思わず彼女を止めようと微かな声で言った。

「文学的って何ですか? そっちの方が僕にはわからないです」
ハンスが怪訝な顔をする。
「まあ、つまり、君は恋する気持ちをピアノに託して弾いてたという事なのだろう?」
フリードリッヒが代弁するようにまとめる。
「だから、別に弾いてた訳じゃないんだ。鍵盤には触れたけどね」

「まあ、その話しは終りにして、私が持って来たケーキをみんなで食べようじゃないか」
フリードリッヒが無理矢理ハンスをソファーに座らせ、彩香を呼んだ。
「ところで、井倉君、人数が少ないようだけど、美樹さんと黒木さんは?」
「ああ、お二人共、外出されていて……」
井倉が紅茶を注ぎながら答える。
「ほう。そうか。なら、お互いカップル同士で仲良くやろうじゃないか」
フリードリッヒがにこにこと言う。
「何だ、それ。どういう意味だよ」
ハンスが顔を顰める。
「井倉君と彩香さん。そして、私とハンス。丁度いいカップリングだろ?」

「帰れよ!」
立ち上がるハンスの腕を引っ張って無理に座らせフリードリッヒが笑う。
「私はピアノだ。そう思えばうれしいだろ?」
「殺すぞ!」
ハンスは不機嫌だった。
「そうか。美樹さんが留守なので拗ねてるんだな。ほら、甘いケーキ食べて機嫌を直したまえ」
「別にそういう訳じゃないよ。最近、彼女はいつも忙しいんだ。でも、僕は我慢しなくちゃいけないから……」

「みんな忙しいのさ。井倉君は秋の音楽祭の準備で、彩香さんはテレビに出る。そして、私達はコンサートツアーだ。私は天にも昇る気持ちだよ。君が快諾してくれたからね」
「誰が快諾したって? 仕方なく許可したんだ。だから、僕は全体の3分の1の時間しか出ない。それでいいな?」
「遠慮する事ないのに。私達は常に対等な立場なんだ。宣伝にもそう告知するつもりだ。私は常にフェアでありたいと願っている」
フリードリッヒが言うドイツ語を井倉は必死に聞き取ろうとした。
「あの、ハンス先生、ツアーにいらっしゃるんですか?」
井倉が訊いた。
「ああ。仕方なくね」
あれ程嫌がっていたツアーに参加する事をどうして承知したのか、井倉はその経緯が知りたかったが、ハンスは黙っていた。

「それはおめでとうございます。お二人のコンサートなら、きっと大成功しますよ」
「ん? 何を言ってるんだね、井倉君。私とハンスが組むんだ。大成功以外に何があると言うんだね?」
意を察したフリードリッヒが腑に落ちないといった顔で言う。
「ふん。そういう単語の意味はちゃんとわかるんだな」
ハンスが皮肉に笑う。フリードリッヒはまだ日本語が話せない。ハンスとはドイツ語で、井倉達とはほとんど英語で話している。ハンスは基本的に日本語で話す。ここは日本だからと弟子達にもそうするように言うのだが、それではフリードリッヒに対して意地悪過ぎではないかと井倉は密かに思っていた。が、結局のところ、それも言えずにいた。が、屈託のないフリードリッヒは構わず会話に割り込んで来るので、実際は彼が心配する程でもないのかもしれない。最終的にはハンスが通訳しているのだから実際、この二人は案外仲が良いのかもしれないと井倉は思った。

「じゃあ、支度が出来たら早速出掛けようか?」
フリードリッヒがハンスに言った。
「おまえとデートの約束をしたつもりはない」
紅茶のカップを置くとそちらを睨む。
「言った筈だろ? 今日の午後はポスターの撮影があるからって……」
「ポスターだって? 聞いてないぞ」
ハンスは微かに頬を引き攣らせて言った。
「確かに伝えた筈だ。もう時間がないからね。衣装はどうする? やっぱりドレスにするかい?」
フリードリッヒがからかうように言ってもハンスは黙っていた。

「じゃあ、スタジオに行くのですか?」
彩香が聞いた。
「ええ。腕のいいカメラマンを紹介してもらえたんです。ハンスにとってはこれがデビューになるかもしれませんからね」
フリードリッヒは言った。が、ハンスはそれを否定した。
「でも、日本ではまだコンサートを行った事ないんだろう?」
「……」
ハンスはまた返事をしなかった。
(デビュー……)
井倉はその言葉を自分の立場と重ねてドキドキした。
(そうか。先生もまだ日本でコンサートした事ないのかな。僕とはまるで違うかもしれないけど、やっぱり先生も初めての場所だと緊張したりするんだろうか)
そう思うと少し親近感が湧いた。が、ハンスは別の事を口にした。

「この事、ルドルフには内緒にしておいてくれないか?」
「何故? 兄弟なんだろ?」
フリードリッヒが怪訝な顔をする。数秒の沈黙の後、ハンスは立ち上がって彼を見た。
「やっぱり、僕は行けない」
俯き加減にハンスが言う。
「待ちたまえ!」
歩き出そうとする彼をフリードリッヒが追い掛ける。二人は階段の下で何やら話し込んでいた。そこは少し離れており言葉もドイツ語だったので、その内容までは聞き取れなかった。残された二人は顔を見合わせた。

「どうなさったのかしら?」
彩香が呟く。
「そういえば、コンクールにハンス先生が出た時もお兄さんが来て酷く怒ってたけど、反対されてるのかな?」
「そうかもしれないわね」
彩香も神妙な顔で頷く。彼女もまた父親からピアニストになる事を反対されているのだ。
(それからいったら僕は随分恵まれているな。いろいろあったけど、親父もお袋も、今は応援してくれてるのだから……。だけど、世の中って何て理不尽に出来てるんだろう。僕よりずっと才能のあるハンス先生や彩香さんが身内から反対されているなんて……)
そんな事を考えていると不意に彩香が提案した。

「井倉、あなた、ハンス先生のお兄さんに理由を話して許可をいただいたら?」
「えっ? 僕がですか?」
井倉は驚いて聞き返した。
「む、無理ですよ。彼とはあまり話した事ないし……。それに怖そうだし……」
井倉は尻込みした。が、ルドルフに対しては、厳しさの裏に潜むやさしさの事も理解していた。

――ハンスは最後まで反対したんだ

彩香のお見合いの件で、テロリストを逮捕するための囮として彼女を危険な目に合わせてしまった。その作戦を指揮したのがルドルフだった。井倉ははじめ、ハンスの指示だと思って傷付いた。が、後からルドルフに事情を聞かされた。そして、彼は弟を責めないでやって欲しいと言ったのだ。すべての責任は自分にあるのだと……。
(わかってる。本当はお兄さんもやさしい人なんだって事……。弟であるハンス先生の事もちゃんと考えてる。もし、反対してるとしたら、何か特別な理由があるのかもしれない。もしかしたら腕の事だろうか?)
そこで井倉は、はっとした。
(ハンス先生の腕の事、彩香ちゃんは知らないんだ)

――このことを知っているのは美樹とルドルフ、それに黒木さんだけですから……他の人には言わないで……

それは、ハンスとの約束だった。たとえ相手が誰であろうと言ってはいけないのだ。が、耳の奥で響く鼓動は切迫していた。

「井倉君、彩香さん、僕、ちょっとフリードリッヒと出掛けて来ます」
話がついたのか、ハンスが来て言った。
「もし6時までに帰らなかったら、猫達に食事をお願いします」
「はい。わかりました。気を付けて」
井倉が言うとハンスが二人を見て笑った。
「君達こそ気を付けてくださいね。今日も猛暑だと天気予報が言ってました。また雷来るかもしれません。倉庫に入る時はドアストッパーを忘れずに……」
「わかりました」
井倉が苦笑する。

「外は今、一番暑い時間でしょう。お出かけになるのなら車を頼んだ方が良いと思いますわ」
彩香が言った。
「そうですね。僕、暑いの苦手です」
ハンスが頷く。
「そうだ。夏なのにそんな長袖の服なんか着ているからだろう。スタジオに着くまでは軽装にしたらどうだい? ほら……」
いきなり袖をめくろうとしたフリードリッヒの手をハンスが激しく打った。
「触るな!」
ハンスは後ろに下がると、袖を引っ張って手首まで覆った。
「ハンス」
フリードリッヒが驚いて彼を見た。井倉や彩香もそちらを見つめる。

「すまん。私が悪かった」
フリードリッヒが詫びる。
「こんな事するなら、もうおまえとは組まないからな!」
「だから、悪かったと謝っている。君がいやがるような事はもうしない。だから、機嫌を直して一緒に行こう」
「……着替えて来る」
ハンスが二階へ上がって行くとフリードリッヒが近づいて来て訊いた。
「彼はどうしてあんなにいやがったのだろう? 君達は何か知っているかい?」
「それは……」
井倉は口籠もった。あんな風に腹を立てる彼を見た事がなかったからだ。反射的に怒って、それから、一瞬だけ酷く悲しそうな表情をした。
(でも、どうして……)
井倉にはわからなかった。

「肌が弱くて紫外線を避けているからだとおっしゃっていましたわ」
彩香が答える。
「そうか。きっと刺激に敏感なタイプなんだね。重々気をつけるとしよう」
「そうだわ。日傘をお持ちになったら如何ですか? 黒いレースの物ならお貸し出来ますけど……」
「それは有り難い。ぜひ貸してください。私がハンスのデリケートな肌を守らねばいけません」
フリードリッヒが頷いた。

レースと聞いて井倉は大丈夫なのだろうかと懸念したが、見れば黒地のシンプルなデザインの傘だった。男性が持っていたとしてもあまりに浮いてしまうような物でもなかった。特に外見の美しいフリードリッヒが傘を広げるとそれは繊細な光の粒子で出来ている絵画のように見えた。
(外国の人って得だな。僕じゃとても似合いそうにないもの)

その時、2階からハンスが降りて来た。濃紺のスーツに涼しそうなブルーの帯を結んでいる。
正装したハンスは品の良い貴公子のように見えた。井倉にしても、未だに彼が30代であるとはとても信じられなかった。フリードリッヒでさえ、そんな彼に見惚れ、一呼吸置いてから言葉を掛けた。
「おや、ハンス坊や。素敵だよ。そのスーツ、君によく似合っているじゃないか。18才位には見えるよ」
「殴るぞ!」
拳を振り上げようとするハンスに、フリードリッヒは傘を差し掛けて笑う。
「ほら、これなら涼しいだろ? 夏の日射しはお肌に良くないからね」
そうして、彼らは井倉が呼んだタクシーに乗って出掛けて行った。

二人を見送ってリビングに戻ると、そこはしんとしていた。
(また、彩香ちゃんと二人きり……)
鼓動の高鳴りを感じながらも井倉はまだ片付けていなかった皿やカップに目を向けた。
「ねえ、井倉。あなたは知ってる?」
ピアノの椅子に掛けていた彩香が唐突に言葉を発した。
「何をですか?」
テーブルの皿を片付けていた井倉が振り向く。
「ハンス先生の事……」
積み重ねた皿とカップを持ってそちらを見る。
「噂を聞いたの」
彩香は僅かに逡巡したように目を伏せ、それから、真っ直ぐ彼を見つめて言った。
「彼、ハンス先生が人殺しだって……」
「え……!」
思わず皿を持つ手が震え、上に載せていたカップが一つ滑り落ちて割れた。